母を奉じて嵐山に遊ぶ(天 201)

吟譜(PDF)

作者:頼 山陽

一七八一~一八三二年 )江戸時代後期の儒者。広島藩士で朱子学者の頼春水の長男として、大阪の江戸堀に生れる。芸州(広島県)竹原の人。十八歳の時、叔父杏坪に従って江戸に出、昌平黌に学んだ。行動に常軌を逸するところが多い人だったため、杏坪に伴われて帰国した。その後、備後、大阪、と転々とし京都の鴨川に定住した。文政十年(一八二七)「日本外史」を前老中松平定信の命により進献し、盛名一時を圧するに至った。著書に「日本外史」「日本政紀」「春秋講義」「山陽詩鈔」「山陽文集」等があり、その文章は大義名分を明らかにし、気概に富み、詩も又人心を鼓舞するに足るもので、明治維新の志士たちに多大の感化を及ぼした。一八三二年五十三歳で没す。

語釈

*倍(ますます)・・・・いよいよ。
*鮮妍(せんけん)・・・鮮やかで美しい。
*忻(よろこ)ぶ・・・・よろこぶ、たのしむ。
*阿母(はは)・・・・・あぼ、母を親しんでいう言葉。
*衾枕(まくら)・・・・きんちん、掛布団と枕、夜具のこと。
*香雲・・・・・・・・・女性の髪の形容。

通釈

嵐山を五年もの間訪れていなかったが、いま来てみると、万株もの桜の木が花をつけて、ますますあでやかで美しい。何より嬉しいことは、毎晩、母と枕を並べ、この桜の花の香しい雲の中に包まれて眠ることが出来ることである。

参考

山陽の母は頼梅颸(らい ばいし)=静子という。見延典子著「すっぽんぽんのぽん」は頼梅颸の八十四年の生涯を小説にしたもの。息子頼山陽に悩まされた時は「すっぽんぽんのぽん」と心の中で唱え江戸時代を生き抜いたといわれる。

【平成十六・三十年度財団全国吟詠コンクール指定吟題】

範吟

素読・範吟 鈴木精成