亀山営中の作(続天 47)

吟譜(PDF)

作者:大久保利通

(一八三〇~一八七八年)(文政十三年~明治十一年)・幕末から明治にかけての武士、政治家。木戸孝允、西郷隆盛とともに「維新三傑」と称せられる。薩摩藩の下級武士、大久保利世の長男として生まれた。通称ははじめ正助(しょうすけ)であったが、のち、主君島津久光の命により一蔵(いちぞう。市蔵とも書く)と改めた。諱(いみな)ははじめ利済、のち利通と改めた。号は甲東。西郷隆盛とは幼馴染であり、後に生涯の盟友、ライバルとなる。

語釈

*龜山・・・台湾屏東県恒春鎮にある小山。台湾出兵時、日本軍は琅嶠湾に面する射寮という地に上陸したが、その湾の南に龜山は位置する。上陸した日本軍は最初、琅嶠湾に注ぐ二本の川にはさまれた土地に第一宿営地を、さらに龜山の南側に第二宿営地を設け、そこを拠点として石門、そして牡丹社集落へと軍を進めた。牡丹社攻略後は一部の守備隊を残し、本体は宿営地へ戻った。
*中宵・・・真夜中、夜半。
*喇叭・・・ラッパ。軍中ではラッパは信号ラッパ、号音ラッパなどと呼ばれ、起床や食事、送迎、課業開始、突撃など、さまざまな場面の合図として用いられた。ここでは夜中に鳴っているので起床や食事などのラッパのわけはなく、突撃ラッパなど戦闘に関するラッパの音であろう。

通釈

広い海の波がとどろき、月は陣営を照らしている。故郷から万里も離れた地へはるばる遠征して来ている者の思いが、いったい誰にわかるだろう、来ているものでなければわかるまい。独りさびしく眠っていると、故郷の家に帰る夢を見る前に、遥か遠くから真夜中のラッパの音が聞こえてきて目を覚まされた。

備考

【大久保利通】
第十一代薩摩藩主島津斉彬に、西郷らとともに登用されて朝廷工作などにも関わることになる。斉彬が亡くなり、斉彬の異母弟久光が藩の実権を握ると久光に接近し、失脚して流罪となった西郷とは対照的に側近として重用された。やがて西郷が赦免されて藩政の場に復帰すると、ともに薩摩を代表する志士として活躍した。はじめ公武合体路線を指向したが、薩摩藩の提案による有力諸侯の朝議参加や四侯(島津久光・山内容堂・松平春嶽・伊達宗城)会議が結果的に失敗に終わり、一橋(徳川)慶喜との対立が深まるにともない、武力倒幕路線に転じた。

慶應三(一八六七)年十月十四日、薩摩藩に倒幕の密勅が下ったが、翌十五日に徳川慶喜が大政奉還をおこなったため、二十一日には朝廷は倒幕中止を指示し、武力倒幕は遠のくこととなった。大久保らは倒幕派の公卿岩倉具視らとともに巻き返しを図り、十二月九日未明、王政復古のクーデターを実行し、摂政・関白・将軍を廃止し、天皇親政のもと、総裁・議定・参与の三職を置くことを決定し、大久保自身も参与に任じられた。翌慶應四年一月、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まり、薩長を中核とする新政府が正式に朝敵となった旧幕府勢力を武力によって完全に打倒した。

維新後は、参議・大蔵卿・内務卿などを歴任し、明治政府の中枢として、近代的な中央集権体制を確立するとともに、富国強兵・殖産興業をおしすすめた。明治六年政変では、征韓論を主張する西郷隆盛や板垣退助を失脚させ、明治七(一八七四)年二月の佐賀の乱では自ら兵を率いて鎮圧した。同年の台湾出兵に際しては、戦後処理のため全権弁理大臣として清国へ赴き、十月、和議をまとめた。明治十(一八七七)年、西南戦争が起こると、京都から政府軍を指揮して鎮圧した。