画眉鳥(続天 44)

吟譜(PDF)

作者:欧陽脩

(一〇〇七~一〇七二年)・吉州廬陵(江西省吉安市)の人。四歳で父を亡くし苦学して仁宗の一〇三〇年、二十四歳のときに首席で進士に及第した。地方勤務のあと召されて諌院にいり、右正言をへて知制誥になる。革新派の官僚として活躍し、文芸方面では古文の復興に努めるが、革新派の高官が左遷されるのに抗議したため、一〇三七年、三十一歳のときに夷陵(湖北省宜昌市)の県令に流される。そのご滁州(安徽省滁州市)刺史などを歴任し、赦されて翰林侍読学士になる。

一〇五七年に知貢挙(省試の責任者)に任じられ、梅堯臣を参詳官に用いて志のある新人の採用につとめる。そのときの及第者に蘇軾らがいた。

一〇六一年、五十五歳で参知政事(副宰相)になるが、神宗が即位すると王安石の改革に反対。

一〇六七年、六十一歳で職を辞し潁州に隠棲する。神宗の一〇七二年、潁州で死亡、享年六十六歳。

語釈

*画眉鳥・・・ホオジロのこと。
*山花・・・・山中の花。
*紅紫・・・・くれないとむらさき。

通釈

ほおじろは美しい声を幾千幾百となく響かせて、自由気ままに飛び移る。山に咲く赤い花から紫の花へ、木々の高い枝から低い枝へと。
この地に来てみて、かつて聴いた鳥籠に閉ざされたほおじろのさえずりが、森の中で自由気ままに枝から枝へと飛び移りながら鳴く声に及ばないことを、はじめて知った。「漢詩をよむ春の詩100選」では画眉鳥をほうじろと訳している」

備考

この詩は一〇四九年、欧陽修が四十一歳の時の作品。二年前の一〇四七年に滁州(安徽省)に左遷され、滁州の豊かな自然のもとで作られた名作の一つのようです。この詩は日本に伝わり、江戸中期、正徳二年(一七一二年)に出された『和漢三才図会』他で紹介されています。