獄中の作(天 91)

吟譜(PDF)

作者:武市半平太

(一八二九~一八六五年)(文政十二年~慶応元年)江戸時代末期の土佐藩士(白札=しろふだ=という最下級)・革命家・土佐勤王攘夷派の指導者。名は小楯(こたて)、半平太は通称、号は瑞山(ずいざん)。時勢に遅れた土佐藩の藩論を刷新し「一藩勤王」の夢を実現すべく、藩主山内容堂の信任厚い吉田東洋を、同志那須信吾に暗殺させて藩政の転換を計った。京都にあっては薩長と共に勤王三藩の名をほしいままにしていたが、土佐勤王党の台頭を不快とする容堂は文久三年の政変(七卿落ち)があったのち、同派の士を大量逮捕し、半平太も最後に投獄された。獄にあること一年九ヶ月、慶応元年五月切腹の刑に処せられた。享年三十七歳。

語釈

*仁義・・・慈しみと道理にかなう心。
*幽囚・・・投獄された人。
*赤心・・・まごころ

通釈

花は、その清らかな香りによって人に喜ばれ、人は、慈しみと道理にかなう心によって輝きを増していくものである。いま、私は獄に繋がれているが、少しも恥とは思っていない。なぜなら、私の行為は、偽りのない忠義の真心だけから出たものであることがはっきりしているからである。

鑑賞

獄中にあって知己を後世に求める心を淡々と述べて、いつ切腹の沙汰があっても泰然自若として、己の信念を曲げない強さを感じさせる。

備考

武市半平太に関する逸話は多いが、至誠の人として同時代人の評価は高く、久坂玄瑞は「当世第一の人物」といい、人望は西郷隆盛、政治は木戸孝允に匹敵するほどの人材であったといわれる。妻富子との仲は睦まじく、半平太が投獄されて切腹するまでの1年9ヶ月間、富子は板の間で寝起きし、冬は布団を使わずに過ごした。毎日三食を欠かさず差し入れ、半平太が切腹する時身に着けていた衣装は、富子が縫いあげて届けた装束であった。   『辞世の歌 』 ふたたひと返らぬ歳をはかなくも   今は惜しまぬ身となりにけり