金剛山(天 93)

吟譜(PDF)

作者:山岡鉄舟

(一八三六~一八八八年)(天保七年~明治二十一年)江戸時代末期の幕臣。通称は鉄太郎。刀槍に長じ,無刀流を編出して春風館道場を設立。講武所剣術世話役,浪士取締役をつとめた。慶応四 (一八六八) 年三月江戸開城に際しては,勝安房 (海舟) の使者として駿府の大総督府におもむき,東征軍参謀西郷隆盛と会見,徳川家存続に尽力した。明治二 年静岡県権大参事として旧幕臣の処遇斡旋に努め,次いで茨城県参事,伊万里県知事を歴任。のち明治天皇の侍従,宮内少輔。 1886年子爵,勲二等に叙せられた。禅機に達した人生観は剣の名声と相まって,剛毅武人型の模範として後世に名高い。

通釈

一命を擲って国に報いる篤き真心と情熱、節を曲げない楠公の忠義心は、今に至るまで清く永く伝えられてきている。金剛山の山麓の赤坂・千早に孤立する孤城の砦においてよくも敵百万という強兵を相手に奇襲を施し。敵の大軍は恐れをなし挫け散ったものだ。

備考

帰る途中、官軍に遭遇し、詰問された際、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府に 通る」と叫んで、驚く官軍の虚を衝いて突破したという。のち大目付となって彰義隊鎮撫に当ったが、彰義隊はわずか1日の戦闘で潰滅した。明治5年(1872)勝海舟と大久保忠寛に懇望されて宮内省入り、侍従、宮内省輔、皇后宮亮などを歴任。その間剣道に精進、無刀流を創始した。旧幕臣たる鉄舟が明治天皇の側近として仕える事を非難する声もあったが、朝廷への忠の中に徳川への忠があるのだと反論している。