四十七士(天 120)

吟譜(PDF)

作者:大塩平八郎

(一七九三~一八三七年)(寛政五年~天保八年)。江戸時代後期の武士、儒学者。平八郎は通称、諱は正高、のち後素。号は中斎。室号は洗心洞。大坂東町奉行所組与力をつとめ、奉行所内部の汚職事件を摘発するなど、不正に厳しい硬骨漢として評判を集めた。腐敗した奉行所内では大塩を敵視するものも多かったが、上司である大坂東町奉行の高井実徳の理解もあって辣腕をふるうことができた。
天保の飢餓に救済を町奉行に請うが、入れられず、蔵書を売り払い窮民を救う。天保八年(一八三七)二月大阪に救民・幕政批判の兵を挙げ、敗れて潜伏後、放火して自殺。著「洗心洞箚記」など

語釈

*四十七士・・・忠臣蔵で有名な赤穂四十七士。亡き主君浅野長矩(内匠頭)の仇を討つため、元禄十五年十二月十四日吉良義央(上野介)の屋敷に乗り込み、吉良の首を取った。事件後、幕府の命により切腹、主君と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。
*臥薪嘗胆・・・毎日、薪の上で寝て痛みを感じたり、肝をなめて苦みを感じたりすることによって、恨みや恥を忘れず雪辱やかたき討ちの決意を堅くすること。中国の春秋時代、激しく抗争した呉王夫差と越王勾踐の故事から。
*辛酸・・・・・つらく苦しいこと。
*凛然・・・・・凛々しく厳しいさま。
*奸臣・・・・・よこしまな思いをいだく臣下。

通釈

赤穂浪士たちは薪の上に寝、苦い胆をなめるような辛く苦しい思いを幾度味わったことであろう
討ち入りのその夜、彼らの刀の光は雪を冷え冷えと照らしていた。四十七士は死して墓となっても今なお揃って主君を守っており
その凛々しく厳しいさまを見れば、よこしまな思いをいだく臣は肝を冷やさずにはおれないのだ。