辞世(天 125)

吟譜(PDF)

作者:吉田松陰

(一八三〇~一八五九年)(天保元年~安政六年。)幕末の思想家、教育家。幼少からぬきんでた才能を知られ、わずか九歳で藩校明倫館の兵学師範となった。嘉永一八五〇年には江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に学んだ。一八五四年、日米和親条約締結のため来航した米艦に密航目的で乗り込んだが、受け入れを拒否され失敗、国許の長州へ檻送されて野山獄に投獄された。出獄後、一八五七年、松下村塾を開き、身分の隔てなく塾生を受け入れ、独自の教育によってわずかの期間に数多くの門下生を育てた。松下村塾からは高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠など幕末の志士や維新の元勲が数多く生まれた。なお木戸孝允(桂小五郎)は松下村塾の塾生ではないが、明倫館の師範だった松陰に教えを受けている。その後、一八五八年には幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を締結したことに憤り、倒幕や老中の暗殺を計画したことから再び野山獄に投獄された。さらに一八五九年、安政の大獄がはじまると、勤王家梅田雲浜との関係で嫌疑を受けて江戸に送られ、評定所の取り調べの結果、斬首に処され、安政の大獄最後の刑死者となった。

享年二十九歳没。獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録りゅうこんろく」を書き残す。

語釈

*辞世・・・死去する際の詩。刑死のときは臨刑の詩ともいう。
*君親・・・君公と両親。
*鑑照・・・うつしてらすこと。神仏がご覧になる。照覧、照臨に同じ。
*神・・・・あらたかな神。

通釈

今私は国のために命を捨てようとしている。私の行ったこと、考えたことは、一切が国の前途を思ってのことであって、そこに一片の私情もさしはさんでいない。志半ばで処刑されても君公と両親にそむくところは少しもない。悠々とした天地の間における、さまざまな人間の歴史の中で、後世に残るものは、自己のすべてを捧げて行った私心なき忠誠である。この忠誠こそは神のみが御覧下さっているのであるから、私はなんらの後悔もなく従容として死につくことができる。

鑑賞

悠々とした天地の間において、臣子として最善を尽くした今、神明に対していささかも恥じるところがない。そうした松陰の明々白々の心境が、二十字の短詩に力強く表現されている。

解説

処刑されるに及んで自ら感じたままを詠んだ詩。安政六年十月二十日、刑死の七日前に獄中から郷里に送ったもので、みずから朗々として吟じたのを筆記させたとあって、大丈夫のいさぎよしとするところではなく、また雲浜が長州に来た折は咎めにあい獄中にあったので、これと相謀る機はなく、罪があるとすれば、日頃の幕府の専横を憎み、著述した『時勢論』の一篇を参議大原重徳卿に上り、また老中間部詮勝暗殺の計画をめぐらしたことである」と答えた。松陰は幕府の取調べに対して、いささかもその事実を曲げることなく、正々堂々ありのままを陳述して憚るところが無かったので幕吏もそのあまりの正直さに戸惑う程であったという。松陰が“親思う心にまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらむと詠じたその母親の人となりは、仁愛勤倹、毅然とした女丈夫で松陰の刑死にも、その言動は普段と異らなかったという。

「留魂録」には、前記のほかに次の歌が記されている。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
呼び出しの声まつ外に今の世に 待つべき事の なかりけるかな
討たれたる吾をあはれと見ん人は 君をあがめて えびす払へよ
ななたびも生き返りつゝえびすをぞ 攘はんこころ われ忘れめや

範吟

素読・範吟 鈴木精成