楠公を詠ず(天 190)

吟譜(PDF)

作者:日柳燕石

(一八一七~一八六八年)江戸末期の志士・漢詩人。讃岐(さぬき=香川県)仲多度郡(なかたどぐん=現琴平町)榎井に富豪の地主加島惣兵衛の一人息子として生まれた。名は政章、号が燕石。性格は豪放で、任侠の世界に親しみ榎井の大親分と称された。頼山陽の「日本外史」に啓発されて勤王博徒となり、吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允・西郷隆盛らと交わった。当時の尊王攘夷派志士の高杉晋作をかくまって高松藩から投獄されたが、四年後の明治元年に釈放された。一八六八年の奥羽越列藩同盟への制圧軍に従軍し、同年八月越後の柏崎で陣中死した。享年五十二歳。

語釈

*聖人・・・理想的な人格を体現した人
*楠公・・・楠木正成 大楠公とも呼ばれる 後醍醐天皇に仕えた代表的武将 足利軍に敗れ湊川で戦死
*干戈・・・「干」はタテ 「戈」はホコ 合わせて戦争

通釈

日本に気高い魂を持った聖人がいた。その名は楠木正成といい、楠公として知られている。どうしたわけか、生まれる時代を間違えて、戦乱の世に生まれ、剣をふるって武功の誉れ高い英雄となった。(もし、泰平の世に生まれていたなら、人々の尊崇を集める人となって、その名を残したであろう)

備考

《楠公の事跡》建武の中興(一三三四年)以後の、いわゆる南北朝時代の後醍醐天皇を主とする南朝に仕えた武人。南朝の軍事力の代表者と目されるが、北朝の武力に比べれば微々たるものであった。しかし寡をもってよく敵を撃退し、千早城の攻防戦はよく知られているところである。延元元年(一三三六)五月二十五日、湊川で戦死した。