豊公の旧宅に寄題す(天 222)

吟譜(PDF)

作者:荻生双松(徂徠)

(一六六六~一七二八年)(寛文六~享保十三)江戸中期の学者。名は雙(双)松。字は茂卿、幼名伝次郎、通称総右衛門、本姓物部。徂徠は号。父方庵は将軍綱吉侍医。祖先は三河の荻生の人で物部守屋の末裔。徂徠は幼にして優れ五歳で字を識り九歳で詩を作り菅公廟に献じた。十四歳で朱子学の大意を会得、十七才で兵学を修む。綱吉の引きがあって柳沢吉保の懐刀となる。吉保は幕政を左右していたから、徂徠の考えはこの時期の幕政にかなり大きな影響力を持ったと想われる。後年、柳沢邸を出て学問研究に没頭し多くの俊才を育て、著作の精を出した。

語釈

*寄題・・・・・その地に行かないで題詠すること。
*豊公旧宅・・・豊臣秀吉のもとの住まい。
*絶海・・・・・絶はわたる。海をまっすぐに横切って渡る。
*楼船・・・・・船の上に櫓を設けた船・幾階にもつくられた大きな船。
*大明・・・・・大唐・大元・大清などの用法と 同じく国号に尊称をつけたもの。
*絶海・・・・・海をまっすぐに横切って渡る。
*柴荊・・・・・しばやいばらの雑木。
*時時悪・・・・時折荒れる。
*当年・・・・・その昔、その当時。
*叱咤・・・・・烈しく号令すること。

通釈

荒海を乗り切って彼地に押し寄せた豊太閤の軍勢は、その勢い、かの大国明をも震え上がらせたものであったが、その根拠地が今日のように雑木生い茂る荒野となろうとは、誰が予測したであろうか。周りの山々には、時折風雨が荒れ狂うこともあるが、今尚太閤が軍勢を大声叱咤しているのではないかとさえ思われるのである。

※この詩は豊臣秀吉が朝鮮遠征の際肥前名護屋に出陣して三軍の指揮を取った、その旧址を想像して作ったもの。