一声の仁(続天 12)

吟譜(PDF)

作者:西郷 隆盛

(一八二八~一八七七年)(文政十年~明治十年)日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。薩摩藩の盟友、大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。維新の十傑の一人でもある。薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。

西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの七代目が父・吉兵衛隆盛、八代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(一八六四年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治四年(一八七一年年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治六年(一八七三年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治十年(一八七七年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

語釈

*主・・・・主旨。主な意味。
*痴人・・・おろか者。
*天心・・・天地の真理。
*認得・・・認識。
*百派・・・種々雑多な学派。
*千秋・・・千年。幾千年。
*仁・・・・儒教で説く最高の徳(人間の慈愛の情を元とするもので、慈しみいたわりの心、思いやりの心)。

通釈

いくら学問をしても、考え方の根本(こんぽん)がしっかししていなければ、馬鹿と同じだ。天の心を知れば志気は奮い立つものなのだ。世間には数えきれぬほど多くの学派がごちゃごちゃと存在しているが、永遠に変わらぬものは仁の一字のみだ。西郷隆盛が子弟に示した漢詩。儒教では「仁義礼智信」のことを「五常の徳」と言うが、西郷隆盛が最も重んじたのは「仁」だったようだ。「仁」の字は「人」と「ニ」を合わせてできる。もともとは人と人とが親しみあうことを言い、「いつくしみ」「なさけ」「思いやり」といった意味がある。また、果実などの中心にある芽となる部分も「仁」と言うことから、「物事の根本」「心の本体」といった意味もありそうだ。西郷さんは、「永遠に不動なのは仁の一字」だと言っているけど、哲人・大西郷の言葉の価値も永遠に不動だと思う。がりがり勉強して知識を詰め込んでも、人間らしい心をなくしてしまったのはだめだ。。

解説

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、一八七七年(明治十年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模で日本最後の内戦となった。
(経済的意義)一八七一年の廃藩置県で全国の直轄化が完成した明治政府だったが、反面、各藩の借金および士族への俸禄の支払い義務を受け継ぐことになり、家禄支給は歳出の三十%以上となってしまった。政府は、赤字財政健全化のため、生産活動をせずに俸禄を受けている特権階級の士族の廃止を目的に四民平等を謳い、一八七三年に徴兵令、一八七六年に秩禄処分を行った。これで士族解体の方向が決定付けられてしまったため、士族の反乱が頻発し、西南戦争に至る。

範吟

範吟 鈴木精成